ついに実現!私たちが千葉・地図ラーの会を立ち上げたときに、真っ先に行きたい場所としてピックアップしていた多古へ!参加者は私たち幹事を含めて10名でした。

多古の魅力として気になったのがこの4つ。
1.リアス式海岸と島地形
2.千葉氏終焉の地
3.江戸時代の多古藩
4.島地区

さ、写真と一緒にポイントをたどってみましょう。Here We Go!

多古は縄文海進のときはほとんどが海の中。リアス式海岸と小さな島が無数にありました。

今から7,000年前から6,000年前の縄文時代、海面が今よりかなり高かった時代があって、この時代の多古はほぼ海の中にありました。

島地区と半島の名残りがよくわかります。

今では海が後退して陸地になっていますが、半島や島だった時代の地形が残っているのです。周りの田んぼは全て海の中でした。

多古に行くのはバス便のみ!成田空港からシャトルバスに乗ります。

着いたのは道の駅多古、田舎だと思っていましたがかなりの賑わいがあります。

ランチは多古米のおにぎりです。多古米はすっかりブランドになりました。

道の駅の裏手には栗山川。ここで今日の朝礼と注意事項の説明と、ルート解説をします。

まずは栗山川に沿って南下します。九十九里に注ぐ川の中で最長の河川です。

川沿いには菜の花が植えられています。この栗山川は鮭が遡上する南限の川なのです。

多古は水田がたくさんあります。この奥が島地区です。

島地区の近くには綺麗に整備された親水公園があります。

島地区を上空から見ます。田んぼの中に密度の濃い集落があります。

島地区は丘になっていますので、上り坂になります。

この地図を持って、島地区の迷宮に挑戦します。

【島地区の迷路の謎】
江戸時代、日蓮宗に不受不施派という一派があって、幕府はこれを禁令としました。そのため彼らは表向きは受派となったのですが、実際は不受不施の信仰を続ける「隠れ仏教徒」として、この島地区で信仰を守ったのです。それは、天領、旗本、大名の支配地が入り乱れていて身を隠すには都合が良かったこと、そもそも多古には日蓮宗の不受不施を支持する学問機関が置かれていたことにも由来します。

島地区の内部には迷路のように入り組んだ道路があります。厳しい幕府の弾圧を逃れるため、幕府役人たちの侵入を少しでも遅らせようという知恵がこの迷路のような道路を生んだのです。のぞき窓や隠し部屋のある住宅もあったようです。

3人1組でゴールを目指します。

どの家にも巻き塀という垣根があって、視界が妨げられます。

これだけ視界が遮られると自分がどこにいるのかわからなくなります。

にこやかな人々。実は迷子になっています。

正覚寺です。日蓮宗不受不施派の総本山です。

志摩城は千葉氏の居城でしたから妙見菩薩もあります。

けっこう時間かかりましたが皆さん無事に迷路を抜けられました。

これは多古橋川です。水田地帯ですので水路がたくさんあります。

利根川の水を引いてここで分水し、田んぼの用水となって流れていきます。

この時はまさに田植えの真っ最中。普段はここを大勢で歩く人はいませんから、そこらじゅうで何してるんですか?と聞かれました。

まち歩きをしてますと説明すると、さらに不思議そうな顔をされます。

室町時代のこと、長らく千葉市を本拠にしていた千葉氏でしたが、宗家の千葉胤直と息子の千葉胤宣は、一門の原胤房、馬加康胤に千葉を追われ、胤直は志摩城に、胤宣は多古城に逃れました。

しかし苦戦の末に胤直と胤宣は自刃、ここ多古が千葉氏終焉の地となったのです。

その後、江戸時代初頭から城下町として再スタートした多古は、天領や大名領だった時代を経て1713年には1万2千石の多古藩となり、陣屋も置かれ繁栄しました。

残念ながら多古城、志摩城とも遺跡はほとんど残っていないのですが、陣屋だけはその石垣が残されていて、当時を偲ぶことができます。

この上り坂は多古城の跡へのルートです。

多古城の空堀跡です。崖の上に建っていたお城でしたが、建物は何も残っていません。

ここには多古藩の陣屋(藩の役所)にあった石垣が残されています。

最後は田んぼの中をゴールに向かって歩きます。

ゴール!中華屋さんで打ち上げをしました。

楽しいフィールドワークでした!一部の写真はご参加いただいた方々が撮影したものを転用させていただいております。

 

 

 

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